【追悼】内田裕也「お別れの会」 日本がロックの涙で濡れた日

「裕也さんこそが、ロックヒストリーやった」

「裕也サン、本当に楽しかったぁ。裕也サンがはじめて、博多に、俺たちに会いに来てくれた時、『ユーたち、曲聴かせてくれ』言うてくれて、次の年、1974年でした。裕也サンが開いた日本ではじめての野外ロックフェスティバルに、憧れのロックスターがたくさんいる中に俺たちを呼んでくれて、デビューの道すじ作ってくれた。いつも一緒におるんやけど、とても僕から裕也サンにお話しはできんやった。日本の第一号のロックンローラーやったからね。せやけど、たくさんたくさん話をしてくれた。ローリング・ストーンズに会った話も、ジョン・レノンも、『フランク・ザッパの家に遊びに行ったんだよ!』って話も、『チャック・ベリーを、成田から俺と力也が両腕かかえて連れてきたんだ!』っちゅうて、裕也サンこそがロックヒストリーやった。裕也サンがいつも見守ってくれるっちゅうことは、もうとっても、心強いことでした。裕也さんが、まさか、今年が最後になるなんて思わんやった。俺たちは生きとるあいだはロックンロールやります。いつもおるけん、ステージにはいつも飛び入り大歓迎です。待ってます」

会場入り口の看板にファンが集まった

最後に一歩マイクからはなれ、「ロッケンロール、イェーッ!」と叫んだ鮎川さんは、献花を終えるといちはやく会場から出てきて、報道陣の前を「ありがとう、ありがとう」とつぶやきながら通りすぎ喫煙所へと向かった。一服終わるともどってきて、会場には入れない報道陣用のモニターの前に立ち、また仰ぎ見るように画面にうつる裕也サンの遺影を見上げた。たまたま真横に立っていた。サングラス越しじゃない鮎川誠の目をはじめて見た。びっしりと黒く長いまつ毛から涙がこぼれていた。
その背後で、マスコミを取りしきる広報担当者が、報道陣に今日の弔問人数を伝えていた。
「950人! 950人で統一してください!」
俺のまわりはピエロばかり。
俺のまわりはテレビのスクリーン。
頭に来るも何もありゃしない。ただふきでるのは笑いだけ。
バカヤロウ、そこは960人にしとけよ。
たとえ10人盛っても、後ろから読むムリくりな語呂あわせでも、どんだけ世間にバカにされても「ロッケンロール! ヨロシク」。転がる石にかじりつきながら裕也サンが守りつづけた「ロック」とは、おそらくそういう叫びだった。

「実話ナックルズ」取材時の一枚。数え切れない伝説を残してくれた(写真=江森康之)

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